☆☆☆松陵会2012年総会講演要旨☆☆☆
歴史と活学について
昭和38年機械科卒 高橋 豊

日 時 2012年5月20日(日)12:00~13:00
場 所 平塚工科高校 本館3階会議室

2.歴史と活学について

 さて「歴史と活学について」、話を進めたいと思います。歴史を考える時、宇宙の歴史は約137億年、これは物理的に絶対的なもの、これよりも過去の歴史は存在しない。何故に137億年なのか、宇宙のビックバン、この話は別の機会に譲ります。興味があれば、慶應義塾神奈川通信三田会報・第36号春号(平成21年5月24日発行pp16~21)「宇宙を考える」[国会図書館他・所蔵]に紹介しています。さらに、地球の歴史は約46億年、生命の歴史は約38億年、動物の歴史は約5億年、哺乳類の歴史が約2億年、類人猿は約1千万年、石器は約百万年前から使用、北京原人が約50万年前、人類(ホモサピエンス)が約17万年、約3万年前の動物の壁画が発見されています。文明の歴史は約5千年とされています。歴史は過去との対話、岸壁や石ころにも歴史がある。時空を遡るロマンの世界、興味があれば、面白く楽しい世界が存在します。


-歴 史(時空の姿を探る)-
・宇宙の歴史 →約137億年
・地球の歴史 → 約46億年
・生命の歴史 → 約38億年
・動物の歴史 →  約5億年
・哺乳類の歴史→  約2億年
・類人猿の歴史→ 約1千万年
・人類の歴史 → 約17万年
・文明の歴史 →  約5千年
(歴史は過去との対話、時空を遡るロマンの世界)


 次に世界人口の推移を示す。現在の世界人口は、急激な増加傾向にあり、70億人を突破しました。約5千年前の世界人口は1億人前後でした。14世紀頃には、ヨーロッパでペストが大流行、一時的に人口が減少した。この5千年の間、数千億人の人々がこの地球上で人の一生を体験し、生きた証としての固有の歴史を生み出してきた。この間、何らかの記録として、絵画や文字や建造物など、後世に残したものがあります。私達が使用している知的情報の大半は先人達の生きた証としての経験と努力の成果であり、人は過去の遺物を使わなければ何もできません。言葉も喋れなくなります。


出典:http://www.unfpa.or.jp/publications/

 知的情報は過去に人間が実践してきた経験的事実の集積です。先覚者達の教訓・教え・智恵に学び、学問は人間を変える。最も肝心なのは実行にある。行動しなければ、知識は何の価値もない。一生懸命に勉強をして、優秀な成績で卒業しても、知識が行動に結びつかなければ価値がなく意味を持たない。歴史に学ぶ活学とは知的情報を人間の価値ある行動に結び付けることです。科学技術は知的情報の集大成です。後で科学技術の話をしますが、意味のない知識は単なるデータ、意味を持つデータが情報、目的達成に有益な情報が知識、知識情報が人の行動を促すのです。人の行動と結びつけて意味のある知的情報が存在します。歴史は単なる過去の記録ではなく、歴史から学ぶ姿勢にその価値があります。

 知識は情報、知恵が能力、情報社会の到来というが、昔の会社では机に座っていると仕事(書類)が回って来た。情報社会ではパソコンに向かって能動的に情報を引き出さなければ仕事ができない。受動的ではなく、能動的に情報を探し見つけなければならない。情報社会では能動的に情報を入手する行為が不可欠、この行為がなければ情報社会を生きて行くことが出来ない。テレビやラジオは一方的に情報が入って来たが、これからの社会は能動的に自分の欲しい情報の入手が必要です。

 歴史は現在と過去との対話であり、夢を描くことは未来との対話になります。歴史から何を学ぶか。先人達の残した知の源泉を正しく理解して取捨選択し、現代と未来に活用することです。物事を見る目を養う。目先で見る場合と長い目でみる場合がある。一面的な見方や多面的な見方があり、物事を枝葉末節で捉えることもあるが、根本的に深く掘り下げて考える。V字型人間というが、ひとつのことを掘り下げる努力も大切です。問題の捉え方や議論の仕方を区別する。歴史の時間軸と空間軸の中から、普遍的な事象やルールを抽出して、現在と未来への対応を明確にする。私はこれを数学的にモデル化をすると表現しています。実践(なすべきこと)と当為(あるべきこと)、自分(主観)と他人(客観)、独自の問題・自分の問題として考えます。歴史は歴史家の描く理想の姿、正しい歴史観を求め、時代の変化を読み取る。歴史は智慧の宝庫、知を識ることで苦しみ、謙虚に真の正しさを求めて学問をし、自己の中に智慧を受ける器を造る。戦後教育を受けた私達は果たして正しい歴史教育を受けたのか、30歳前後になって疑問に感じ、再び歴史に興味を持つようになりました。

 知識と見識と胆識という言葉がある。知識はある事柄を知ること、その内容は理論と結びつき智慧になる。見識は知識に体験や人格、ある悟りのようなものが身に付いたもの、物事の判断基準になる。胆識は決断力と実行力を持つ知識あるいは見識のこと、節操と深みのある器量や度量を持つ人になることができる。活学は知識・見識・胆識を活かすことにある。学問の要は活用にあるのみ。活用なき学問は無学に等しい。福澤諭吉の「学問のすすめ」によれば「学問ノ本趣旨ハ読書ノミニ非ズシテ精神ノ働キニ在リ」、「福翁百話」には「至善ヲ尽クシテ之ニ達センコトヲ勉ム」とあります。

 道を志す者の七見識と物事を見る眼力(五眼)も大切です。七見識とは、人情の識、物理の識、事体の識、事勢の識、事変の識、精細の識、濶大の識のこと。人情の識は、人間の情の理を理解する識、浮世の経験を積み苦労した者でないとわからない。物理の識は、自分の人生、暮らしに役立てて行く識、自然の起こす事象の本質に迫って理解する。事体の識は、現象の根元にあるものをしっかりとつかむ識、表面に現れた現象に振り回されないこと。事勢の識は、問題や事件が持つ背景の動きを捉える識、これが掴められないと解決が難しい。事変の識は、絶えず流動する事勢の変化を捉える識、どう変わって行くかを捉える。精細の識は、一局にこだわらず細部を捉える識、細部にわたって突っ込んで知っていないと判断を誤る。濶大の識は、大局を見て論断・決断する識、小さいことにこだわらず、大きく物事を捉える。

 もう一つ、物事を見る眼力、五眼とは、天眼、肉眼、法眼、慧眼、仏眼のことである。天眼は、神通力により、普通は見えないものを見透す超人的な天人の眼。肉眼は、人間の肉体の持つ眼、人間の肉眼のこと。法眼は、諸法を観察する智慧の眼、諸法の真相を知り、衆生を済度(迷い苦みから悟りの境地へ)する菩薩の眼。慧眼は、差別・迷執の念を離れて、真理を洞察する眼、声聞(教えを聴聞) ・縁覚(独自に悟りを開く)の眼。仏眼は、一切衆生を救おうとする仏が諸法実相を照見(照見五蘊皆空:身も心もすべて空を見通し)する仏の眼。五眼を備えるには凡人に不可能、徳の智慧を磨き、修業を積んで備える。

 ここは学校、教育の場、教育の専門家がおられる中で大変に恐縮ですが、教育について少し話をしたい。教育は求める心を植え付けること、求める心が最も大切です。人は何かを求めれば成長します。教育は講師の質や良質な教材も重要ですが、受け手(受講者、学習者)の心構えにあり、最も大切なのは学習意欲、学習の根幹は読書です。私が小学生の頃は教科書がすべてでした。教育には知的情報を世代間に引き継ぐ機能があります。教科書はその知的情報を整理して分かり易く提供しています。しかし、教える側と教わる側に知的な共鳴が生まれなければ知的情報の世代間継承は起こらない。

 子供の頃、我が家は貧しく、教科書以外の本はほとんど持っていなかった。ある時、友人が単行本(岩波の夏目漱石の草枕の冒頭)を教えてくれた。その家庭には本棚に多くの蔵書があり、羨ましく思った。考えてみますと、人は一生涯で1万冊以上の本を読むことが困難、多くの人は数千冊が限度です。世の中には数千万冊以上もの本が溢れています。その中から、何を選択して読むか、その人のすべてを形成するとも考えられます。現在、我が家には数千冊の蔵書があるが、家族はいずれ廃棄物になると考えているようです。一冊一冊のそれぞれに強い思い入れはありますが、そんなことは無関係、本人が死ねば処分するという。本は生きている人のみの血肉なのかもしれません。

 分かることと出来ることは違います。分かることは知識習得型で概念的学習に基づき一般的な学校教育や企業内集合研修でも可能、出来ることは体験的で実践的学習に基づき定型的業務や計画的多能工教育および名人技の学習などの習熟性が求められます。優秀な人は教室で先生の話を聞いただけで、家で勉強しなくてもテスト100点満点を取る。そんな人が友人にもいた。本質的に素質・頭脳の違いを思い知らされた。大学教授には世界を飛び回って活躍している人もいる。しかし、組織や個人の行動や考え方は、日々の生活の中で、継続的にかつ複合的に変化・進行することが求められます。教育はこの主体的な活動としての学習を効果的にかつ効率的に実現するための意図的な支援活動です。

 学習は学ぶと習う。学ぶは真似る。習うは慣れる。時空的な知識の習得と失敗の経験にある。より多くの失敗を知り、人間は成長する。学習は複雑な現象、空の容器に画一的な知識を一律に注ぎ込むのではなく、自主的・自発的・主体的なもの、基本は見て真似て繰り返すことです。同一の教育環境でも個人の学習効果は異なり、学習者の心構え次第で、知的創造に基づき、個性の開花と多様化が生じる。この個性の開花と多様化により、刺激的な切磋琢磨と競争が生まれ、企業内においては、技術と組織の進歩発展に結び付く。特に、企業内教育は、業務と関連した並列化が望ましく、理論と現実(実務)との対比・確認ができる環境で推進されるべきと思います。

 教育により期待される効果は、生存リスクの低減と人間の持つ能力の増強です。人間の持つ心身の働き『感覚→認知→思考→(記憶)→意志→(情動)→決定→計画→行動』をより迅速にすることです。生存リスクの低減とは、環境、健康、安全、資源など、生存の保障に関する障壁を低くすることであり、その知恵を獲得することです。人間の持つ能力の増強とは、知的、技術、生産、社会、協調、先見、感性、倫理などの能力を高めることであります。私は高校時代に柔道部、柔道の稽古は同じ動作を繰り返す。そうすると体の動きが自然に身に付く。集中力、気力、体力を身に付けることができた。合気道や他の武道なども同じ、無駄な動きをせずに、自分の力を使わずに相手の力を利用する。ある時、合気道の方と対峙しことがあった。その時、私の体が無意識に動き、相手の正面に立った。相手は驚き、なぜ動けたのかと、私が柔道をしていたことを知り、相手は納得した。

 訓練で能力は高まる。習熟性とも言う。これからの日本はモノづくりやカネづくりでなく、ヒトづくりなのではないでしょうか。日本は、乏しい天然資源、高い人口密度、特殊な言語国です。少子高齢化の中で、次世代を育成するため、徳育、知育、体育の向上、人的資源の最大活用が欠かせない。画一的教育から個性的教育へ、分析的な問題解決型から創発創生的な創造思考型へ、あるべき姿からありたい姿へ、原因と結果から目的と手段へ、発想の転換が必要です。多くの異分野を結合・融合して、新科学技術や新産業や新分野を創生することで、知覚と言動による学習を介して、自己意識の創造思考力を高める。教育は容器に水を満たすようなものではなく、火を付けて燃やしてやることです。ひらめきは価値観の異なる人との激論から生まれることが多い。

 企業は人生の夢を実現する戦い(競争)の場です。人と人との切磋琢磨と競争原理に基づく人生の戦場です。生き残りを賭けて可能な限りの戦略と戦術を展開する。技術や技能を身に付けることは人生の武器を身にまとうことです。すべてに興味を持ち、自分を意識し、好きなモノ、得意分野を見つける。経済学に「比較優位の原理」というのがある。簡単に言うと、すべての分野で相手に劣っていても、自分の最も得意な分野で仕事をすることで経済社会は合理的に成長する。どんなに優秀な人、優れた国家でも、すべてを自分だけで処理することは不可能、これは国際貿易の基本原理でもあります。開発途上国や後進国も大切だということです。学問の世界に興味を持ち、趣味(遊び)と実益(仕事)を区別する。趣味(遊び)は自己満足のために、実益(仕事)は顧客満足のためにある。強い技術者にならなければダメ、専門的な技術のみではダメ。技術を知り、経理を知り、営業を知り、語学を知り、世界を知る。学問は人を知ること、人を知る力を養うことでもあります。

 彼を知り己を知れば百戦して殆うからず(孫子)です。人を知る者は智、自ら知る者は明「知人者智、自知者明」(老子)です。そして、明なれども察に及ばず「明不及察」(宋名臣言行録)を意識すべきです。理論と実験は技術者の両輪です。さらに匠の技を継承する。数学的モデルで目に見えない科学(発見)や技術(発明)の世界と会話する。世界に認められる商品(サービス)と技術(手段)を目指す。学ぶことと知ることを楽しみ、やるべきことをやり、できることに挑戦し、できることが増えると、やりたいことや好きな仕事が見えてくる。やりたいことをやっていると、仕事が面白く、想像を超える力が発揮されます。技術的な事業の成果は必然性と偶然性の織り成す綾の結果です。特に、企業の場は偶然性を可能な限り排除する工夫が望ましいのです。

 個人的な経験として、私のセルフディベロプメントの具体的目標の変化を少し紹介します。企業内教育のレールに乗せられたのかもしれません。私は、子供の頃、将来は科学者あるいは技術者になりたいと思いました。結果、NECで技術担当を経験した。高校卒業の頃、偏微分方程式の具体的な意味を完全に理解したいと考えた。そして、20代で差分方程式を用いて電磁場問題などを解くことができた。NEC工業専門学校を卒業した頃、有限要素法で自然現象のモデル化を試みた。これはマトリックス、つまり連立一次方程式であらゆるものをモデル化する。これを具体的な商品開発に応用したいと思った。この結果、NASTRANやANSYSを使い各種商品開発に応用した。有限要素法との出会いは、東京大学の生産技術研究所、ある時、上司から東大・生産技術研究所の見学を推奨されて、遊びがてらに出かけた。そこで後に世界的に著名な研究者となる大学院生に出会った。懇切丁寧にマトリックス構造解析法の説明を受けた。そこでの理論と実験の芸術的な素晴らしさに感動した。多くの研究論文を頂戴し、必死に独学で勉強した。30歳を過ぎた頃、アインシュタインの相対論で動作する電子デバイスが開発できるのではと考え、挑戦してみたいと思った。そして、GYROTRONの研究・開発に成功した。半導体部門に異動した頃、何か超高速で動作する半導体素子の開発をしたいと考え、半導体の基本素子、デバイス構造の研究に従事した。結果、UFRD(超高速整流ダイオード)などを開発・商品化した。

 計画部門を担当した頃、数万品種、数億個/月の半導体製品の生産管理を合理化したいと思った。1個たりとも管理ミスは許されない。その後、生産管理システムを構築し、生産計画の自動立案化などに成功した。自然科学は自然法則に基づきモデル化する。社会科学は人と人との普遍的な約束事を時間軸と空間軸に区別して抽出しモデル化できる。社会科学に科学技術との類似性が存在することに気付いた。情報システムに従事した頃、地球規模の生産基地で生産する半導体製品をすべて瞬時に把握できる仕組みを構築したいと思った。そして、GAINSと呼ばれる情報システム構築プロジェクトに参画し、世界規模の半導体生産の仕掛状況が瞬時に把握できるようになった。半導体製品を受注から出荷までをすべて完全自動で管理したいとも考えた。その結果、ISHINと呼ばれる生産管理情報システムを構築できた。自動化すると、人を介在せずに最も合理的にシステムが動作する。人の介在は、外乱となり、システム上で、自動修正される。本人は気付かない。自動化システムの問題は人間が基本原則を忘れてしまうことです。自分の意志でキーポードに数字を入力するが、その数字で現金が動くという意識が薄らぎ、契約により取引しているという感覚が無くなるようだ。

 振り返ると、企業内教育をベースにして、自然現象や社会事象を数学的(数式)モデルに対応付けて理解する訓練を、無意識にたたき込まれ、求めてきたようだ。最終的に、自然科学だけでなく、社会科学にも興味が持てるようになった。私の現役時代の話、企業内教育によって育てられた経験談、これらについては、今月(2012年5月)30日にお茶の水の明治大学で開催予定の、日本機械学会イブニングセミナーで講演・紹介します。前置きの話に与えられた時間の大半を費やしてしまいました。本題となる話に先を急ぎたいと思います。


(文責:高橋豊)

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