東南アジア旅行記〜花蓮・太魯閣〜最終回   

台湾太魯閣の天祥

 2000年7月に中国の上海と蘇州、翌年の9月末から10月初旬にかけてシンガポールとマレー半島最南端の町ジョホール・バール、 2002年6月には台湾の台北と花蓮方面を旅行した。

 いずれも観光が主な目的であったが、現地の人達との交流と気風に触れ、現実の状況をこの目で確かめることができた。

 「私の見た東南アジア」と題し、私的な旅行記の最終回を紹介します。
(投稿 松陵会役員 高橋 豊)

台湾太魯閣渓谷
 
 台湾3日目、十数名でマイクロバスを貸し切り、花蓮・太魯閣方面へ向かった。前日に急遽予約したミステリーツアーの開始である。台北から花蓮まで約230Km、コースの大部分は太平洋側の絶壁であり、箱根の旧道以上の難所が数多くある。台北近郊の高速道路を下り、基隆から鼻頭角へ、大渓、宜蘭、蘇澳までは比較的平坦な道路であった。途中、セブンイレブンが数多く見受けられ、台湾進出の激しさに驚き、マイクロバス内に大量の飲食類を調達した。

 台湾北部の町並は、日本の昔の田舎町のようであり、のどかな田園風景があった。蘇澳の港では花蓮方面の道路を見失うハプニングを体験した。花蓮までの山道は、途中に「清水の断崖」と呼ばれる絶壁があり、台湾地震の痕跡が幾つか残されていた。太魯閣峡谷の入口にあるビジターセンターに到着した時は午後2時を過ぎていた。近くに適当な食事場所がなく、花蓮近くの「光隆」のレストランまで行った。

 花蓮は大理石の産地、昼食後、休日の石材加工工場を見学し、巨大な旋盤や研磨機、加工品の数々に触れて歩いた。広い敷地内には鉱石科技博物館があり、大理石像や珍しい鉱石・化石等を展示していた。また、花蓮は先住民族アミ族の中心地、アミ族は歌謡と舞踊が秀でるという。カラフルな衣装とダイナミックなダンスを見学し、一緒に踊りに加わった。

 再び太魯閣方面に向かうが、すでに夕方近くになり、峡谷入口の川辺から渓流の山並みを見て引き返した。花蓮のホテルは東洋大飯店であり、チェックイン後、夕食を兼ねながら花蓮の夜市を散策した。かなりの賑わいがあり、物価は台北より安く、衣類や食材等が豊富であった。

 翌日は、花蓮の海側をさらに南下の予定であったが、マイクロバスの運転手が何を間違えたか山側にハンドルを切った。海側への道を探したが、見当たらずに、結果的に引き返して海側の太平洋を望み、途中で海岸へ降りてみた。時には鯨が出現するというので見回したが、その気配がなく、山側にある高射砲台跡が戦争の面影を残していた。

 再び、山側へ戻り、鯉魚潭湖面へ車を走らせた。ここは現地の穴場、観光案内には掲載されてなく、生きたエビを食し、湖畔の食堂にて、早めの昼食を済ませた。今度こそ、太魯閣峡谷へと車を走らせた。断崖絶壁に燕の巣穴が無数に見られる燕子口を経て、9つの曲がりくねったトンネルのある九曲洞へ、一旦、下車して峡谷のすばらしさを満喫した。

 さらに、奥へと思っていたら、車の運転手は、何を考えたか、太魯閣峡谷の入口へ、引き返してしまった。再び、峡谷へのチャレンジを頼み、車は峡谷観光の終着点「天祥」へたどり着き、深緑の中の吊り橋を渡ってみた。峡谷を下り、ガソリンスタンドに立ち寄って、台北への帰路に付いた時、午後3時を過ぎていた。工事中の多い山道を抜け、絶壁の下り坂をブレ−キがよく効かないオンボロ車で、ペタルを踏むとキュウキュウと泣いていた。南無阿弥陀仏、過去に日本人旅行客が崖から転落した事故の報道を思い出した。

 運転手は地図もなく方向音痴、標識無視のミステリー旅行の不安はあったが、無事で何より、貴重な体験をした。花蓮から台北に向かう途中、長さ2,000mのトンネルのど真ん中で約1時間駐車した。原因も判らずに、車内は次第に一酸化炭素が充満し、息苦しくなったが、皆さん我慢してよく耐え忍んだ。長時間駐車の原因となった道路の大工事を見ながら車が走り出し、またトンネル、さらにトンネルと続いた。途中、セブンイレブンで駐車、トイレ、水の補給、腹ペコが救われた。

 台北で最後の夜のホテルYMCA国際賓館へ到着した頃は夜の9時半であった。チェックイン後、夕食を求め、漢中街にある24時間営業の香港式飲茶「亮星」まで歩いた。

 台湾には親日派が多く、政治的に中国派と独立派が対立している。歴史的には、元朝時代にその保護国となり、清朝期に福建省へ編入され、1885年に台湾省になった。しかし、1624年にはオランダに侵略され、スペインにも一時北部を占拠された。明朝期の1661年に鄭成功(国姓爺)がオランダを撃退した。清仏戦争では台湾北部を一時フランスに占領され、日清戦争で下関条約により台湾が日本に割譲された。第二次世界大戦後に中国に返還されたが、約50年間は日本の統治下にあった。

 この間に、日本はダムを造り、鉄道を敷設し、台湾の近代化に貢献した。その後、清朝を打倒して中華民国を成立させた国民党が中国本土の内乱に敗れて台湾に移住し、今日の台湾の土台を築いた。

 台湾本島は南北394km、東西144kmであり、中国大陸とは約160kmの位置にある。南北に三千m以上の中央山脈が貫なり、国土の2/3が森林地帯である。暖流の海流に囲まれ、高温多湿の亜熱帯と熱帯の地域である。2千数百万人の人口の内、原住民は約35万人という。大半が中国大陸からの移民であり、そのほとんどが福建省出身者である。ホテルから見た台北市内にはパソコン教室や学習塾の看板が多くあり、街中では、整然と駐輪したバイクの多さに驚き、若者達の活気を強く感じた。太平洋岸側には最先端技術工場らしき建物を見ることができなかったが、台北の郊外にそれらしき建物もあり、新竹や高雄を中心にして、中小企業を中心とするハイテク産業が存在する。

 最終日は、台北(中正国際機場)発13:30のEG204便にて、故宮博物院や足裏マッサージに未練を残しながら、成田へ帰国した。4泊5日の台湾旅行は天候に恵まれ、旅先での多くの出会いが一人一人に人生の1ページを記録した。

 

(あとがき)
 それぞれの国、それぞれの地域には、固有の歴史や文化が存在し、そこに住み生活している人々がいる。人が生まれ、育ち、意識を持って、様々な行動をすると、そこに何らかの組織や社会が存在する。

 母親と赤子の関係から、家族を認識し、友達や社会的な交際相手が生ずる。やがて、地域や国家が意識され、宇宙から見ると、地球と言う小さな生命体の社会があることを知る。日本で国内を旅行すれば、必ず誰かあるいは何かとの出会いを経験する。

 海外旅行においても、日本では味わうことのできない出会いがある。人は多くの出会いを体験して成長する。そこでの出来事や歴史や地域性を知ることが人々の心をより広く大きくさせてくれる。私の見た東南アジアは世界の中でほんの一部分であるかもしれない。しかし、それぞれの出会いにおいて、2度と味わうことのできない一瞬を通して、素晴らしい体験をした。

  
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